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== メモ ==
 
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*劉備(161~223)は中国後漢末から三国時代の武将、蜀漢の皇帝。字は玄徳。(Wikipedia:劉備[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99] )
 
*劉備(161~223)は中国後漢末から三国時代の武将、蜀漢の皇帝。字は玄徳。(Wikipedia:劉備[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99] )
*漢王朝の皇朝である劉氏の数多いる末裔の1人であり、今でいう北京のあたりの草履売りとして生を受ける。黄巾の乱討伐において義勇軍を結成し、以降は諸国を転々として傭兵稼業を続けていくうちに流浪の皇帝・献帝に取り入って「皇淑」と称されるようになり、紆余曲折あって最終的に献帝から禅譲され「蜀漢」皇帝になるという、波乱万丈すぎる人生を送った。
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*漢王朝の皇朝である劉氏の数多いる末裔の1人であり、今でいう北京のあたりの草履売りとして生を受ける。黄巾の乱討伐において関羽・張飛らを率いて義勇軍を結成し、以降は諸国を転々として傭兵稼業を続けていくうちに流浪の皇帝・献帝に取り入って「皇淑」と称されるようになり、紆余曲折あって最終的に献帝から禅譲され「蜀漢」皇帝になるという、波乱万丈すぎる人生を送った。
 
*著者の陳寿は「度胸が大きく強い意志があり、礼儀正しく人に接し、人徳に溢れた存在であり、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。彼の許には優れた将が集まったもの。それらは前漢の高祖に通じ、英雄の器を備えていたといえよう」と評価するが、益州を得るまでは勢力が小さすぎたため苦戦を繰り返していた。
 
*著者の陳寿は「度胸が大きく強い意志があり、礼儀正しく人に接し、人徳に溢れた存在であり、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。彼の許には優れた将が集まったもの。それらは前漢の高祖に通じ、英雄の器を備えていたといえよう」と評価するが、益州を得るまでは勢力が小さすぎたため苦戦を繰り返していた。
 
**『三国志』が書かれた時代には魏が正式な国家(魏を基にした晋の統治下だったため)であったが、劉備は「先主」と呼ばれている。これは陳寿が蜀出身であったためで、一種の贔屓である。
 
**『三国志』が書かれた時代には魏が正式な国家(魏を基にした晋の統治下だったため)であったが、劉備は「先主」と呼ばれている。これは陳寿が蜀出身であったためで、一種の贔屓である。
*『正史』と『三国志演技』では人物像が異なっており、『三国志』をモチーフとして描く作品でもキャラクター描写が『演義』寄りの聖人君子か『正史』寄りの野心溢れる義侠かもはっきりと別れ、『三国伝』の劉備は『演義』寄りといえる。
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**『演義』によれば耳が非常に大きく、すらりとした長身で手は膝に届くほど長く、唇は紅を指したように赤く、顔はヒゲすら見えないほどの色白だったとされる。また、演義以降の作品では双剣を操るとされた。<del>こんなのが実在したらほとんど人間サイズにした[[ガンダム]]である。</del>
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*『正史』と『三国志演義』では人物像が異なっており、『三国志』をモチーフとして描く作品でもキャラクター描写が『演義』寄りの聖人君子か『正史』寄りの野心溢れる義侠かもはっきりと別れ、『三国伝』の劉備は『演義』寄りといえる。
 
**正史におけるやらかしエピソードの殆どは、『演義』では張飛を始めとした部下たちの独断などに変更されたりしている。
 
**正史におけるやらかしエピソードの殆どは、『演義』では張飛を始めとした部下たちの独断などに変更されたりしている。
 
*三国伝の劉備は上記の通り影が薄いとよく言われるが、上記の通り客観的に見ると蜀漢の建国まで大勢にあまり影響を及ぼしていないのが劉備という人物であったため、見方によっては'''原作再現の結果'''とも言える。
 
*三国伝の劉備は上記の通り影が薄いとよく言われるが、上記の通り客観的に見ると蜀漢の建国まで大勢にあまり影響を及ぼしていないのが劉備という人物であったため、見方によっては'''原作再現の結果'''とも言える。
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