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**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。(後に人々が上記のことを言ったときにも、司馬懿は『生きている者の相手をするのは得意だが、死者の相手をする方法は知らないな』と平然としていたという)
 
**孔明の死後、整然と撤退する蜀軍に付け入る隙を見出せずに退いた事で'''「死せる孔明、生ける仲達を走らす」'''という故事が生まれたのは事実だが、「防衛すれば勝ち」の情勢で防衛しきった司馬懿の才覚をこれだけで決められるものではない。(後に人々が上記のことを言ったときにも、司馬懿は『生きている者の相手をするのは得意だが、死者の相手をする方法は知らないな』と平然としていたという)
 
***息子である司馬師・司馬昭兄弟の業績と共に、曹操が織田信長に喩えられることもあり、徳川家康にオーバーラップされて語られることから、「恩ある主君の家を乗っ取った野心家」と見られることも多い。
 
***息子である司馬師・司馬昭兄弟の業績と共に、曹操が織田信長に喩えられることもあり、徳川家康にオーバーラップされて語られることから、「恩ある主君の家を乗っ取った野心家」と見られることも多い。
**史実では軍師というよりは政治家寄りな孔明だが、一方で史実の司馬懿は軍人寄りの人物としても活躍しており、孟達や公孫淵の反乱を迅速かつ巧みに討伐するなどその才覚を遺憾無く発揮している。 ・孟達の反乱では、『司馬懿が来るまで時間がかかる』とタカをくくっていた孟達を、彼の予想を上回る速さの進軍で急襲して打ち破り(ただしこれには、進軍速度が現実ではありえないと異論もある)、公孫越の反乱では、曹叡から作戦について尋ねられた時、『行きに100日、戦いに100日、休養で60日、帰りに100日で計360日(で鎮められる)』と見立てを断言し、その通りに成し遂げている。
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**史実では軍師というよりは政治家寄りな孔明だが、一方で史実の司馬懿は軍人寄りの人物としても活躍しており、孟達や公孫淵の反乱を迅速かつ巧みに討伐するなどその才覚を遺憾無く発揮している。
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***孟達の反乱では、『司馬懿が来るまで時間がかかる』とタカをくくっていた孟達を、彼の予想を上回る速さの進軍で急襲して打ち破り(ただしこれには、進軍速度が現実ではありえないと異論もある)、公孫越の反乱では、曹叡から作戦について尋ねられた時、『行きに100日、戦いに100日、休養で60日、帰りに100日で計360日(で鎮められる)』と見立てを断言し、その通りに成し遂げている。
 
*正妻の張春華との夫婦仲はあまり良くなかったと思われる記述が歴史書に記されている。
 
*正妻の張春華との夫婦仲はあまり良くなかったと思われる記述が歴史書に記されている。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は息子の司馬師と司馬昭と共に断食を行って抗議……いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に謝罪して事態を収めたとのこと。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
 
**西晋の歴史書『晋書』によれば、病気の見舞いに来た妻を(夫婦喧嘩の最中だったので)門前払いした所、これに憤慨した彼女は息子の司馬師と司馬昭と共に断食を行って抗議……いわゆる、ハンガーストライキを決行した。これに驚いた司馬懿は妻に謝罪して事態を収めたとのこと。ちなみに、彼女達が行ったハンストが記録に残る世界最初のハンストだと言われる。
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